昭和四十七年三月一日 朝の御理解
X御理解第四十二節 「これ程信心するのに、どうしてこういうことが出来るであろうかと思えば、信心はもう止まっておる。これはまだ信心が足りぬのじゃと思い、一心に信心して行けば、そこからおかげが受けられる」
信心を進めて行く、お徳を受けて行く道とでも申しましょうか、お徳を受けて行くことというのが本当でしょうね。これは根本姿勢だと思いますね。この四十二節というのは、いよいよおかげを頂かせてもらわねばならん。一心に信心して行けば、そこからおかげが受けられるというのは願っておったことが成就するということでございましょうけれども、私はそれは甘い考えだと思うですね。
一つの願いを立てて一生懸命信心させてもらった。ところが願いが反対のことになった。そこでこれはまだ信心が足りんのだと思うて、一心に信心を続けさせて頂きよったら、そのことの願いが叶ったというような頂き方は、安易なものだと思うですね。成程、そういうおかげも受けましょうけれども、私はそこからのおかげというのは、やはり一段と信心を進めて行くという、その心に力がつく、お徳がついてくるというのがそこからのおかげであると思うのです。
ですからもう、信心とは本当におかげを頂く道なのだと。信心しておかげを受けてくれよとはそういうものだと。人間の言うなら幸せ、幸福、しかもそれが子供にも孫にも伝わって行き、そしてあの世にも持って行けれるという程しの私はおかげを頂こうという信心がね、目指されなければ、だからいけないと思うです。信心とは、御縁を頂いたということは、金光様の御信心に御縁を頂いたということはもうそれなのです。
そこに言うなら、神様の願いが本気で人間の永世の幸福とでも申しましょうか、願って願って止まない、私どものおかげを神様が願って願って止みなさらんところのおかげというのは、私はお徳以外にはないと思う。私どもの願いが、目先のことが成就したと、それは願わなければおられませんことですから、願いも致します。またおかげも頂けて行きます。けどもう一つそこにです、例えば根本のところに、そういう信心の本当の姿勢というものが出来ておらねばならない。
私はこの四十二節の御理解の配列とでも申しましょうかね、鳴るほど粉の御理解は四十
二節にあるという、何かわけが分かるというような気が致します。成程信心にいよいよ一生懸命のもの、信心には一生懸命のものが必要であることが分かります。それこそ四十二とに「しに」とこう、なら一生懸命ということは、もうそれこそ死んだ気でということでございましょう。
えらいこう死んだ気で等というと厳しく聞こえますと。そこのところに何と言いますかね、信心の楽しみといったようなものが、出来てくる。それにはそうした一生懸命のものからしか本当は、魂といったようなものは生まれてこない。例えば信心してどうしてこのようなことが起こってくるであろうかといったような時にです、その都度都度に神様といよいよ、深い交わりとでも申しましょうかね、神様の心の奥がいよいよ分かって行くというのでございますから、もう本当に有難い楽しい限りであります。
これは私の信心の一つの歩みといったようなものを、皆さんが聞いて下さり、またそれを見ておって下さる方達も沢山おってでございますから、それを思うて頂けば一番この御理解に適切だと思います。信心しておってどうしてこのようなことがと言う度々に、私の信心は確かに飛躍しております。
いわゆるこれ程信心するのにというのではなくてです、またそこから一心のおかげを受けて行けば、そこからおかげ受けられるという、そのおかげは、心が開けてきたということだということだったのです。勿論心が開けてくるということに、おかげも伴うて来たわけでございます。けども、ここで言う、そこからおかげが受けられるというそのおかげの方に直結致しますとね、心が開けんままおかげということになりますから、これは本当のおかげになりません。 えらい難儀なところ通り抜けた、これはまだ信心が足らんのだと思うて、一心に信心さして頂いて、そこを通り抜けた、通り抜けたらやはりおかげであったと、通り抜けたら大したことはないと思う。そこのところを、いよいよ神様の交流がいよいよ深くなるということ。そこから生まれてくるところのものでなからねばならない。そこからおかげが受けられるというのは、心の方が先である。
ですから、例えば腹というか、どん腹がいつも決まっている。決まっておるということよりもむしろ、そのことにいよいよ親愛を感じさせてもらえる、信心はもう限りがない。これは私がまだ本当に分からんところばっかりだと思うですけれどど、その分からんところが一つ一つ分かって行く、いよいよ深く分かって行く、死んだ気で励め努めよ、徳も付く。死んだ気でいよいよ一生懸命に面々に励め。徳が付くということの方が先である。
徳が付くということは、自分の心の力である。そのことに喜びが湧く程しの難儀に直面致しましても、そのおかげが徳である。励め努めよ徳も付くである。それから人も助かる、道も拓けるである。この辺のところに神様の願いが込めてある。私どもが本当に助かるということは、人が助かるということにつながらなければいけん。いろんな神様の願い、勿論人も助かる。それからいよいよ無限大に広がって行くところの道が付いてくる。道が拓けてくるというのである。
これは私がいよいよ一生懸命の時分に頂いたものです。徳が付くのが先である。死んだ
気で励め努めよ、徳が付く。その次には人が助かる。その先に道が拓けて来ておる。もう私の信心のおかげの表れ方というものは、この通りであった。これ程信心するのに、どうしてこのようなことが起るであろうかと思う時、信心が止まっておる時である。本当にその通りでありますね。
もう信心は止まっておる。これはまだ信心が足りんのだと一心に信心して行けば、そこからおかげが受けられる。一心に信心して行けば、そこからおかげが受けられる。一心に信心して行けばそこからおかげが受けられるというのは、徳が付くということが先であるということが分かりましょう。そこからおかげが受けられるというのは、それから道が拓けるというのじゃない。そこから、そういう信心から、徳が受けられるのである。
ならその徳が受けられるようになったから、もうすぐ道が拓けるかというとそうじゃない。人が助かる程しになる。自分の周囲の人たちが、関わり合いのある人達が、次々と助かって行く働きが生まれて行く。その辺のところに、神様の願いというものを感じ取らせて頂く。ははあ神様の願いというものはここにあったんだなあと分からせてもらう。そこから道が拓けてくるのである。そこの道は、ならばどういう道かというと、もう無限大に広がって行く道である。
そこで私どもが難儀という、その私の以前に申しておりましたことの中にこの世には難儀というものはないのだと。ナポレオンという人は、自分の辞書から「不能」という字は取ってしまえとこう言う。不能という言葉はないと。私がするところに出来ないということはないと言う。言わば豪言した人らしいです。私もある意味で、これは慢心かもしれん。これは豪語だと思いますけど、私の持つ字引から「難儀」という字は取ってしまえと。難儀ということは絶対ないのだ。その難儀と思うような時に、いよいよ神様と深く交流が出来れる。いわゆる神様付き合いが出来れるようになる。
本当に皆さんも心打ち割って付き合うて下さるようになる。しかも益々そのおかげがあるのみだというわけです。難儀ではない、神様といよいよ深い仲に入って行けれる手立てなのだ。だから嬉しいことだと、楽しいことだと。好きな人同志が傍に寄っただけでも、心がときめく。手と手が触れたら、体が痺れるようになる。段々深い仲に入って行く。言わば切っても切れん仲になって行く。そこから良いものが生まれてくると、道理は同じなのです。そんなに楽しいものなのです。
神様と私どもというものは、神様の方から手を出しござっても、こっちが手を引っ込めるものですから、それこそ体が痺れるようなと、皆さんの信心を今言うならばです、言うなら神様の傍に寄っておるようなものではなかろうか、それこそときめくような心の状態というものがです、まず生まれなければなりません。それから言うならば手と手が触れる。いよいよそれから、深い仲が生まれてくる。もうそれは【】に楽しい、有難いことなのですよ。
神様と私どもはそういう風に、今日の御理解がそうです。だからこれはまだ信心が足りんのだといった思いでは、むしろこう何というか、飽き足らないような気が致しますね。
いよいよ信心の奥所へ進んで行けれるという楽しみが生まれてくる程しに、初手から一生懸命の信心が生まれてくる。初手というのははつてと書いてありますね、初めから。だから信心が成程素晴らしいなあと分かったらですね。初手からというのはそこのところから、そういう信心にならにゃいかん。
どうしてか神様に近付かせて頂きたいという心が燃えてくる。信心、何かそこに機会があり、チャンスがあったら、いよいよより深い仲になって行こうと願う、神様が願われる。私どもが願う。願い願われる仲になって、おかげを頂いて行く。これはまだ信心が足らんのだというて、一心に信心して行けば、そこからおかげが受けられるというのは、いわゆる徳が付いて行くということ、力が出来て行くというおかげ、そのおかげの向うに道が拓けるというおかげになる。このおかげはもう無限大のものである。
私は自分の頂いているそのお詩の意味というものがね、分かっておるようだったけれども、今日の御理解を頂いて、一段とはっきりしてきたように思う。成程、神様が死んだ気で励め努めよ、徳が付くという意味が一番に仰った意味が分かる。励み努めるところから徳が付く、力が出来る。そこから次には人が助かる。その前に道が拓けるである。その道がいよいよ有難い道、その道、それが拓けて本当の意味においてのおかげである。その先に道が拓けるである。その道がいよいよ有難い道、その道が、それが拓けて、それが本当のおかげである。いわゆる無限大である。
本当に私は思いますのにね、合楽で今皆さんが、信心の稽古をなさっている方は、そこに一つの責任を感じなさられなければならない。そういう信心の土台を、まあ言うならば合楽の信心の土台というのは、まず信者さんでありましょうが。その信者さんの信心がです、また売れたまた売れたというようなおかげではなくて、どのような場であっても、それを嬉しゅう楽しゅうというかね、有難く頂いて行けれる信心を身に付けて頂くということは、私は合楽教会の願いでなからなければならない。
そういう人たちの信心が、土台があってです、人が助かるということになり、道が拓ける。いわゆる合楽教会の無限大のご比礼の誕生ということにつながる。その中に私ども個人もあれば、私ども一象もあるといったような、そういう言わば合楽教会の基礎造りの時に、言わば選ばれたというような、選ばれた信奉者としての自覚を持って頂きたいと思います。
一心に信心して行けば、そこからおかげが受けられるというのは、これはまだ足りん、これは信心が足らんからと一心に信心して行けば、もうそこに道が拓けると意味ではない。そこから道が、力が受けられる。徳が受けられる。そこから私じゃない人も助かる。いわゆる教会のご比礼繁盛になる。それから先に拓けて行く道、それがおかげである。
そのためには、おかげ頂くためには、まだ時間がかかるなあというようなものと、先程男女間の結ばれて行く過程などを話しをしましたが、やはり信心が好きにならなければならない。いやこれは本当に信心なければ世界は闇だと、信心なければ人間の本当の幸せはないのだと思わせて頂くくらいな、私は信心、そういう思い込みなのです。
良いこと悪いこと、これはまあ良いことじゃないと分かっていますけれども、先日からのあの軽井沢でしたかね、事件の犯人の人達じゃないですけれども、まだ若いのは十六くらいから十九くらい、まだ二十四五才の若い青年がです、これが本当だという主義主張のために、命もはめておるといったようなね、それは間違っていると私は思うです。
けれどもそれを本当だと私は思い込んだところに、どんなに例えば責められようが、今現在黙秘権を使っているということがございますけれどもね、一言もしゃべらないと。金光様の御信心させて頂いてです、例えて言うなら、踏絵というのがありましたよね、キリスト教をつぶしてしまおうという時代がありましたです。それで信者か信者でないか知るために踏絵を踏ませた。踏絵を踏み切らないのは、キリスト教信者として処刑したと。処刑されてもやはり踏まなかったというようなね、私は金光教には欠けているように思うのです。
けど今日の御理解を頂かしてもらうとです、信心が好きになったら、そういうものも一生懸命に燃えてくるのじゃないかとこう思うのです。そういう信者でです、現在の合楽は固めたい。たったこのくらいの信者なのですから、それから先ですよね、集まるは集まるは。けれども、それは枯れ木も山の賑わいのような、いわゆるおかげおかげで集まってくる人達であろうと思うです。
けれども基礎になるところの例えば信者、それはいよいよ信心が好きになって、傍におっただけでも胸がときめくようなものを、しかも一途に思い込んだ、その信念を曲げずにそこからおかげが受けられるというおかげ、そこからおかげが受けられるというおかげは、まず力を受けなければ、徳を受けなければ、そこから人が助かる程しのおかげになってこなければ、それから拓けてくる道、その道がもう無限大のものだと。
成程金光様の信心をさせて頂かなければ、ここんところのおかげを受けられんとお互いが確信を、いよいよ確信させて頂いてね、動かないものにして、私はお道の信心には取り組まなければならないという風に思うのです。ですから、もうその感じておる難儀というものがね、そのことによって、いよいよ神様と深う交うて行けれる、交流して行くというおかげを、頂いて頂きたいと思います。
どうぞ。